「人前に出る時は外面を用意するべき」という思い込み。
関西のみなさんは地震大丈夫でしたでしょうか…。
Twitter見てたら、母校がおもいっきりひび割れていたので驚きました。
地震…週末は千葉が震源のものもあったし、早く落ち着くとよいのですが。
さて。タイトル。
昨日私はこう書きました。
私の好みのブログは「雑多に書きなぐったブログ」じゃなくて
プロがプロらしく整理された情報を発信しているもののようで。
これが完全に私の思い込みというか、鎧というかであったなぁと。
今日の地震のツイートたちをみながら思ったのでした。
確かに人によって話していいこと悪いことはあるし、
取っていい態度とあんまりよくない態度もあることでしょう。
でも。
人格偽ってまでやることじゃなくね。
これが、今まで「よき人間」「良き社会人」ぶってきた自分の痛いところだなぁと。
好き好んで人格作って、勝手に苦しんでる人間を助けてくれる人はいない。
というか「作った人格」を助けようとしてもらっても、自分は満たされない。
そんなことにも気づいていなかったんだなぁと思うと笑えます。
でも、用意した外面じゃないと受け入れられないと思っていた。
厳密には、用意した外面じゃないと理解されないと思っていた。
それは半分事実であり、半分嘘だと思う。
相手に理解してもらうために、アウトプットを調節するのは
コミュニケーションスキルとして必要だし、「優しさ」です。
ただ、根本的な自分の考え方やスタンスを歪めてしまうと、
本当に理解しあえる人を逃してしまうし、見失う。
もしかしたら、理解しあえる人に出会う生き方は
針に糸を通すくらい小さなズレも許されないかもしれないのに。
ってなわけで、そのフィルターを外して外の世界を見てみようと思います。これから。